生かされて生きて――元ひめゆり学徒隊“いのちの語り部”与那覇百子

本書の内容

太平洋戦争末期の昭和20年3月から6月にかけて、沖縄で繰り広げられた地上戦。島の地形が変わるほどの激しい艦砲射撃は〝鉄の暴風〟と呼ばれ、民間人も含めた18万人の尊いいのちが失われた。

アメリカ軍による本格的な地上攻撃が始まった3月末、沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校の生徒たち222人で構成された「ひめゆり学徒隊」は、負傷兵の看護要員として、那覇市南東に位置する南風原(はえばる)の陸軍病院に動員された。

そこで彼女たちが目にしたものは、病院とは名ばかりの大小30余りの壕と、数棟の三角兵舎。真っ暗な壕の中には、多くの負傷兵が無造作に寝かされていた。

やがて、陸軍病院のある南風原にも米軍が迫り、学徒隊は軍とともに南部へ撤退。さらに、突然の「解散命令」によって、彼女たちは戦場の真っただ中に取り残されてしまう。

雨のように降り注ぐ砲弾。そのなかを逃げ惑い、多くの仲間は次々と倒れたが、著者たちは米軍に捕らえられ、生き残った。

ひと晩中、仲間と泣き明かし、迎えた収容所での夜明け。水平線から昇る太陽の温(ぬく)もりに包まれたとき、ふと誰かがつぶやいた。

「私、生きていいのかしら……」

戦火をくぐり抜け奇跡的に生き残った著者が、時代を超えて語り伝える祈りといのちのメッセージ。

【目次】

  • 第1章忍び寄る戦火
  • 第2章南風原陸軍病院
  • 第3章仲間の悲劇
  • 第4章父との再会
  • 第5章南部への撤退
  • 第6章解散命令
  • 第7章自決か捕虜か
  • 第8章朝日を浴びて
  • 第9章収容所生活
  • 第10章鎮魂
生かされて生きて

生かされて生きて 元ひめゆり学徒隊 “いのちの語り部”

与那覇百子著 道友社編

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紹介映像

【生かされて生きて----元ひめゆり学徒隊“いのちの語り部”】

本書の著者・与那覇百子さんのインタビューを交えた紹介映像です。

生かされて生きて

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与那覇百子著 道友社編

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著者略歴

プロフ写真

与那覇百子【よなは・ももこ】

1928年(昭和3年)3月、沖縄県首里市(現・那覇市)生まれ。沖縄師範学校女子部予科在学中の1945年3月26日、ひめゆり学徒隊の一員として南風原陸軍病院に動員。最前線で負傷兵の看護に従事するも、米軍の捕虜となる。2005年(平成17年)から2008年にかけて、ひめゆり平和祈念資料館で沖縄戦の〝語り部〟を務める。その後も自治体や学校などの要請を受け、全国各地で自らの戦争体験を語り続けている。埼玉県桶川市在住。

【本書の参考資料】

本書は、著者の証言の基調をなす歴史的資料として、ひめゆり学徒隊の隊長を務めた西平英夫氏(当時、沖縄師範学校教授)の後年の著書『ひめゆりの塔学徒隊長の日記』(雄山閣)から、事実経過の記述を引用している。

西平氏は1908年(明治41年)、奈良県生まれ。京都帝国大学卒業。沖縄師範学校では生徒主事、寮舎監長を務めた。学徒隊の行動や状況を手帳などにつぶさに記録、戦後、それを報告書としてまとめ、文部省に提出したことで、沖縄戦の実情と、ひめゆり学徒隊の働きが、世に知られることとなった。

生かされて生きて

生かされて生きて 元ひめゆり学徒隊 “いのちの語り部”

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書評・感想

~書評~

〝太陽の笑顔〟の向こうにある決意

【 映像作家柴田昌平 】

〝太陽の笑顔〟――私が、この本の著者の与那覇百子さんに初めてお会いして以来、ずっと抱き続けている印象である。百子さんがいると、場がパアッと明るくなり、華やかになり、皆の気持ちが楽になる。

あるとき百子さんに尋ねてみた。「笑顔があまりに魅力的なので、不思議です」と。すると百子さんからは、意外な答えが返ってきた。

「沖縄戦が終わったら、父も二人の姉も亡くなっていた。天涯孤独なんだと毎日泣いてばかりいた。あるとき近所のおじさんから叱られた。『百ちゃん、悲しいのはおまえだけじゃないんだ。沖縄の人は、みんな家族や大切な人を失っている。〝泣きっ面に蜂〟というでしょう。泣いてばかりいる人に寄ってくるのは蜂くらいだぞ』と。それからはどんなに苦しくても悲しくても、人前ではもう絶対に泣かないと心に決めたんです」

私は、百子さんの笑顔の向こうにある深い決意に心打たれたのだった。

与那覇百子さんは、沖縄戦の最前線で看護活動に当たった「ひめゆり学徒隊」の生存者の一人。本書は、道友社編集部が百子さんへ二十数時間に及ぶロングインタビューを試み、整理した貴重な記録である。

本書の優れた点を四つの側面から書いてみたい。

第一に、沖縄戦が始まる前から戦争に突入していくまでの様子を、少女の目線から観ていること。ひめゆり学徒隊が戦場動員される前夜、昭和20年3月22日の夕方、ひめゆりの学園の音楽室では、音楽教師だった東風平恵位先生と生徒たちが『月光』の曲などを奏でるひと時があったという。日常と戦争がいかに紙一重でつながっているのかが、よく分かるエピソードだ。

翻って考えると、平和だと思っている私たちの日常も、いつ戦争に巻き込まれるか分からない。平和は絶えず努力をして守っていかなければならないことを教えてくれる。

第二に、百子さんが「ひめゆり学徒隊」のこれまで知られている大事なエピソードの多くの現場に居合わせていたため、断片でしか見えていなかった出来事が、一人の少女の目線でつながって立体的に見えてくること。印象的なのは、やがて戦死することになる東風平先生が「いいか、絶対に死ぬんじゃないぞ。おまえは生きてくれ」と百子さんに言うくだりである。「生きて虜囚の辱を受けず」、つまり「捕虜になるくらいなら死ね」とずっと教育されてきたひめゆりの少女たちの中で、「生きろ」と強く言われたのは百子さんだけではなかっただろうか。そのことが、本書のタイトル「生かされて生きて」につながる一つの伏線となる。

第三に、戦後、少女たちが戦場の狂気からどのように覚め、心の傷を乗り越えようとしていったかが分かること。冒頭に紹介した〝泣きっ面に蜂〟のエピソードも、その一つだ。絶望的な状況から、どのようにして心をケアし、立ち直っていったのか。このことは「東日本大震災」の被災者のみならず、私たち日本人全体に共通するテーマだと思う。

第四に、本書は、悲惨な内容を扱いながらも、平易で分かりやすく、百子さんの笑顔のような優しさで読む人の心に届く文章となっている。一人でも多くの方々に読んでいただきたい。

(『天理時報』8月14日号掲載)

【しばた・しょうへい】
1963年東京都生まれ。東京大学卒業後、88年NHK入局、沖縄放送局および報道局特報部に勤務。92年民族文化映像研究所に入所、日本の山村の生活や文化を映像で記録する基礎を学ぶ。現在、映像製作会社プロダクション・エイシア代表。ドキュメンタリー映画『ひめゆり』は、2007年度キネマ旬報〈文化映画作品〉第1位、文化庁映画大賞など8冠を達成した。

大震災被災者に「希望」のメッセージ

【 毎日新聞編集委員大澤文護 】

太平洋戦争末期の沖縄戦で看護要員として動員された「ひめゆり学徒隊」の悲劇を知らない日本人は、きわめて少ないだろう。戦後、小説や舞台、映画の題材などとして、たびたび取り上げられてきたからだ。

しかし、与那覇百子さんの著書『生かされて生きて』は、学徒隊の一員として見聞きした極限の体験を淡々と綴るノンフィクションとしての質の高さに加え、2万人以上の死者・行方不明者を出した「東日本大震災」が起きたいま、出版されたという点で、他の出版物や映像とは異なる重要な位置を占めたということができる。

震災発生以来、私たちジャーナリストは、その被害の巨大さと、福島第一原発事故の深刻さを追いかけてきた。だが、震災から数カ月を経て、被災地で生きる人々の心に積もる悲しみの巨大さにも目を向けている。

7月9日付の『毎日新聞』朝刊(東京本社発行版)は、福島県南相馬市の緊急時避難準備区域に住む93歳の女性が「私はお墓にひなんしますごめんなさい」という遺書を残して、自宅で自ら命を絶った悲劇を報じた。政府と民間を挙げての支援にもかかわらず、被災者に将来への希望を抱いてもらうことの困難さを浮き彫りにした。

与那覇さんの著書の中で、最も心に残ったのは、第8章「朝日を浴びて」のエピソードだ。

米軍の捕虜になり「自分も潔く死にたかった」と話していた与那覇さんたちが、水平線の彼方から昇る「お日さま」の温もりに包まれるうち、「〝大いなる存在〟の前にいるそんな気持ちになり、私は思わず『生かされているのね……』とつぶやいていました。すると、ほかの仲間たちも、『生きたいね』『そうね、生きたいよね』と口々に言いました」という変化を遂げる。

子供のころから教会で暮らした与那覇さんの心に深く根づいた神様への思いから、思わず口をついて出た「生かされているのね」というつぶやきが、「絶望」に閉ざされた仲間たちの心に「希望」を注いだのだ。

与那覇さんは、東京国際ブックフェア会場で開かれた道友社「出版記念のつどい」のあいさつで、東日本大震災にふれ、こうも語った。

「きっと明日は今日よりも良くなっているはずです。沖縄も、がれきの中から立ち直りました。被災者の皆さんも、前を向いて歩かれることを望みます。この本が、そのための手助けになればとも思っています」

神様に「生かされている」ことを実感し、極限の体験の中から立ち上がった与那覇さんの物語だからこそ、大震災の被災者の心に「強く生きて」というメッセージを直接届けることができる。

さらに、未来に確信を持てなくなっている全世界の人たちにも、この本を一読してもらいたい。

(『天理時報』8月14日号掲載)

〝魂の声〟発する祈りの書

【 志賀恵美天理教堀江分教会長夫人 】

太平洋戦争末期の沖縄戦のことは、「ひめゆりの塔」の名前とともに知ってはいました。

しかし、著者・与那覇百子さんのお話は衝撃的でした。17歳の少女が遭遇するには、あまりにも過激な戦場の現実。最前線に立たされた沖縄の人々の生の姿を、初めて教えていただいたように思います。

著者は沖縄師範学校女子部予科在学中、ひめゆり学徒隊に動員され、負傷兵の看護に従事。戦火の下、多くの仲間がいのちを落とす中も奇跡的に生き抜き、後年は〝語り部〟を務められました。

今年83歳になられますが、不思議にも、本書の著者の言葉には、若い女性の素直さと力強さがこもっているように感じます。それはたぶん、お話をされるたびに17歳のその日に戻って、戦場で倒れていった多くの人々の鎮魂を祈りつつ、語り部という重い務めを果たしてこられたからではないでしょうか。

また一つには、首里分教会長であられた父上の篤い信仰を受けて、親神様の十全のご守護の中で「生かされて生きて」いる、いのちのありがたさを、〝魂の声〟として発信し続けておられるからではないでしょうか。次の一節に心打たれます。

「生き残った私に託された務めは、亡くなった父や姉たち、ひめゆりの仲間たちが、今度生まれ替わってくる世の中では戦争の苦しみも悲しみも味わうことなく、家族の温もりに包まれて、幸せに暮らせるように祈ることだと、強く心に銘じたのです」。昭和21年、著者18歳のときの述懐です。

口絵の白黒写真には、のちにひめゆり学徒隊として動員された女学生たちの明るい笑顔が並んでいます。彼女たちの笑顔を、決して無にしてはいけない。戦争の悲惨さや平和の尊さ、いのちの大切さを次代へ伝えるとともに、親神様のご守護にお応えする陽気ぐらしを目指さねば、と思いました。

(『天理時報』7月31日号掲載)

復興へ向かういま、出るべくして出た本

【 山口國三天理教那覇分教会前会長 】

この本が届いたのは、奇しくも六月二十三日。沖縄戦が終了した「沖縄慰霊の日」だった。一気に読み通した。

私自身も一兵卒として、沖縄にアメリカ軍が上陸するわずか四カ月前まで壕を掘っていた。

昭和十九年十二月二十七日、私の部隊はフィリピン・レイテ島の戦闘に参加すべく那覇港を出発したが、乗っていた船が台湾沖で撃沈された。幸運にも命だけはたすかったが、台湾で足止めされることになった。

日本軍は沖縄へ逆上陸するため、沖縄出身の兵士を集めて「雷神部隊」を編成し、台湾東部の花蓮や宜蘭で待機させたが、上陸用の艦船が手配できず、そのまま終戦を迎えた。

二十一年末、復員して沖縄へ帰ったが、生まれ育った故郷は見る影もなくなっていた。緑したたる森や丘は焼かれ、破壊し尽くされて、自分が立っている場所がどこなのかさえ分からないありさまだった。教会は影も形もなく、跡地は米軍の物資集積所になり、戦後十年、足を踏み入れることさえできなかった。

父(康貞・那覇分教会二代会長)を捜し出すのに五日かかった。発見したのは、那覇から北東へ四〇キロほど離れた石川市(現在のうるま市石川)のテント小屋だった。母・春江の死は、その一週間後に知らされた。

那覇分教会の部内教会は沖縄本島に八カ所あったが、建物が残ったのは、北部にあった国頭分教会だけ。その国頭分教会も、照屋正永会長は栄養失調で出直していた。ほかの教会はことごとく焼失し、四待、南風原の両分教会は家族全員が死亡。首里分教会は、上地安昌会長と二人の娘さんが戦死。長嶺栄得・島尻分教会長は八十歳の高齢で家族や信者をことごとく失い、生きる望みを失っていた。

沖縄戦が始まるまで、那覇分教会と部内教会合わせて十カ所の教会事務を取り仕切り、教区主事まで務めた上地先生を失ったことは、父にとって大きな痛手であった。那覇から首里へ続く坂道を、自転車で毎日往復されていた上地先生の大きな足を、いまでも覚えている。

那覇分教会の役員は、比嘉和輝先生を除き、ほとんど戦死された。上地先生も私の母も、どこで亡くなったか知れず、遺体も見つからない。父は皆の戦死の日を六月十四日と決めて年祭を勤めてきた。その父も四十一年六月十四日に出直した。

二十三年、知人の世話取りで私は結婚した。妻・芳子は、ひめゆり学徒隊と同じ沖縄第一高等女学校の卒業生だった。十九年八月、妹や弟を連れて熊本へ疎開したおかげで生き延びたが、よほどのことがない限り、ひめゆりの塔には足を運ばなかった。私が「薄情ではないか」と言うと、「死んでしまった同期生たちのことを思うと、生きているのが申し訳ない」と話した。

本文にもあるように、人間の生死は紙一重だ。妻とその家族は熊本へ疎開する際、大型輸送船「対馬丸」に乗り遅れ、小さい船に乗せられた。そのときは残念がったようだが、対馬丸は米軍潜水艦の魚雷で沈没し、一千四百八十四人(うち学童七百五十八人)の犠牲者が出た。著者の家族も同時期に熊本へ疎開していたというから、妻と同じ船に乗っていたかもしれない。

二十三年の末、那覇の郊外へ教会を移転してから、少しずつ生き残った信者さんが訪ねてくるようになった。父は妻や長男を失った寂しさを振り払い、「いまから本当のお道が始まるのだ。おつとめがまともに勤められない世界は大掃除されるのだ」と張りきっていて、その姿に私は舌を巻いた。

生き残った教友は、風雨をしのぐだけのテント小屋やバラック小屋に身を寄せ合って、なんとか生きているという状態だったが、なぜか心は解放感と新しい希望に満ちていた。信仰のおかげだろう。

戦後、最初のおぢば帰りができたのは二十七年五月。本書の著者、与那覇百子さん(当時は旧姓・上地)を含めた四人が修養科に入ったのだ。

当時、アメリカ占領下にあった沖縄では、おぢば帰りをするのも困難だった。二十四年から軍政府へ陳述書を提出し、パスポートの申請などを試みたが、「沖縄復興に役立つこと以外を目的とする渡航は時期にあらず」と拒否され続け、ようやく渡航許可が下りたのは二十七年初頭だった。

同じ年の九月、父や私たち夫婦と二人の子供、中頭、場天の会長を合わせた七人で十年ぶりにおぢばへ帰った。戦前と変わらぬおぢばの姿に全員が感泣した。

沖縄からの戦後初の修養科生が〝いのちの語り部〟となり、ひめゆり学徒隊長の西平英夫・沖縄師範学校教授が教会子女の婿だったことに、奇しき縁を感じる。

そしていま、東日本大震災の影響で多くの人が苦しんでいる日本が復興へ向かううえで、出るべくして出た本だという思いを強くする。

だからこそ私は、復興から新生の道が拓けることを期待する思いで、この本を勧めたい。

(『みちのとも』9月号書評欄掲載)

共同通信社配信記事

9月1日付

太平洋戦争末期、著者はひめゆり学徒隊の一員として負傷兵の看護にあたっていた。

当時、17歳。猛烈なアメリカ軍の上陸作戦で、一瞬のうちに人間が死ぬのを目の当たりにした。専門の医師や看護婦が早々に逃げ出しても、ひめゆり学徒隊はひるまなかったという。著者も患者たちのために水をくみに走るのが日課だった。

奇跡的に生き残った人が伝える「生きることの意味」は、重い。

~ 元学徒隊員の思い ~

【 吉村秀子さん 】85歳・横浜市・元ひめゆり学徒隊員

私たちひめゆり学徒隊員の生存者は、誰一人として66年前の〝あの時〟を忘れることはありません。当時、私は十数人の米兵の前で、手榴弾で自決しようと覚悟を決めました。しかし、私の考えに気づいた引率の先生が「死ぬのは死ぬときでいい」と、止めてくださったのです。

一日一日を懸命に生き抜いた当時の人たちからすると、「生かされて生きる」という言葉は、万感の思いがこもった、深く、重みのあるメッセージだと受け取れます。

百子さんの著書が刊行されたことを、元学徒隊員の一人として、うれしく思います。

~ 読者のお便り ~

【76歳・男性】

1冊の本を1日で読み終えたのは初めてです。自分がいかに無知であったかを思い知らされ、驚愕(きょうがく)のひと言です。陽気ぐらし世界の実現を目指して、さらなる勇気を与えていただきました。

【74歳・男性】

戦争の悲惨さは年月が過ぎると忘れ去られてしまいます。この本は、一人でも多くの人に読んでもらいたい貴重な証言です。

【82歳・女性】

著者の体験を読んで、涙が止まりませんでした。一生の宝物として、何度も読み返そうと思っています。

【85歳・男性】

戦時中、海軍の同期のほとんどが特攻隊として戦死しました。著者の見いだした〝生きる〟意味に、涙があふれました。

【73歳・男性】

沖縄戦を体験した人が、当時の記憶と重ね合わせて「読みながら涙が止まらなかった」と話してくれました。

【49歳・女性】

ひめゆり学徒隊のことは映画や本などで知っていましたが、この本を読んで、あらためて沖縄戦の痛ましさを実感しました。

【59歳・男性】

一瞬一瞬が生死を分かつ時代を生き抜いた著者の姿が、よく伝わってきた。戦争のない時代に生きている現代の者には、到底察し得ない貴重な経験が述べられており、大変興味深く拝見した。

【82歳・女性】

当時の沖縄の人たちは命がけの毎日だったことを、若い人たちに知ってもらいたい。いまの沖縄しか知らない私の娘や孫たちにも、この本を読ませようと思います。

【72歳・男性】

雨嵐のごとき爆弾や銃弾のなか、生死の境をくぐり抜けて〝生かされたいのち〟。食べるものもない極限の状況下でも、明るさを失わなかった著者の言葉は何より尊い。いまの平和な時代に感謝して生きることを示唆してくれた。

【74歳・女性】

ドキドキし、感動し、涙で容易に読み進めることができませんでした。生かされて生きることの素晴らしさを、しみじみ味わわせていただきました。

【61歳・男性】

ひめゆり学徒隊の悲惨なご体験を、よくぞ語ってくださった。また、学徒隊長であった西平先生の著書からの引用が、時間の経過や周囲の状況をより一層明確にしていると感じた。

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